日本人だから現代文はできる?

英語学習に対する世間の思い込みが存在するのと同様に、

国語に対してもやっぱりある種の思い込みのようなものがあると感じます。

 

大学受験の子を持つ保護者同士で

「普段日本語を使っているのに現代文ができないなんて」

「現代文なんて日本語なんだからできるでしょ」

という会話をしているのを聞きました。

その会話を考察したいと思います。

 

正直、

私は現代文も他の教科と同じように、負荷をかけた学習が必要だと思っています。

 

「市井」「矜持」などの言葉の意味と読み方を知っていますでしょうか。

現代文で出てくる文章にはこのような単語がわんさか出てきます。

日常生活ではあまり使わない単語ですので、漢字や語彙集を使って勉強するはずです。

 

普段の生活で使わない語彙であるなら、

現代文のボキャブラリーも日本史の年号や人名も、同じ次元の話のはずです。

意識的に暗記しないとならない単語はそれ相応の労力をかけて覚えるわけですし、

「知らない単語、用語」という意味では、教科は関係ありません。

現代文であっても普段使わない語彙なら、社会科と同じように暗記します。

 

その意味では、「日本人なら現代文はできるでしょ」という命題は、

「日本人なら日本史を勉強しなくても歴史上の人物を全員言えるでしょ」と言っている

のと変わらないと思うのです。

 

言語習得には、生活言語と学習言語の2種類があります。

生活言語は普段の会話で身に付くボキャブラリーや社会的文脈(いわゆる空気を読むとい

うこと)を指します。

ただし、さらに一段上の知能や思考、概念を身に付けるには、意識的な学習が必要で

す。この意識的な学習で身に付く言語能力を学習言語と言います。

 

小学生が学校で勉強して段々と知識が増え、

会話が大人向けになっていくプロセスを思い浮かべてもらえれば大丈夫です。

 

自然に人間の言語能力が伸びるなら小学校は必要なく、

自宅や近所で友達同士で遊ばせていれば済むはずです。

 

小学校は勉強して大人になるためのステップと捉える人は多いのに、

高校に対してはそのような意識を持つ人は案外少ない。

勝手な私見ですが、そのように感じます。

 

「普段日本語を使っている」のは確かですが、あくまでも生活言語です。

大学受験の現代文は日常生活で使わない以上、絶対に学習言語です。

 

それ故、意識的な学習は必要不可欠です。

私は声高に主張したい。