さて、シリーズ第3弾。
約10年前に比べて、
何かにカテゴライズされて言葉で一括りにする傾向は弱まってきたと感じます。
東日本大震災の時、「被災者」という言葉で物事を一括りにし、
社会の矛盾を覆い隠したという評価は定まっているように思います。
被災地でのボランティア従事者に対するセクハラやモラハラ、
あるいは、迷惑ボランティア(現地には必要でないものを一方的な善意で押し付ける人たち)の存在についての話題が上がってきたのは、大震災から数年後。
何と時間のかかったことが。
少なくとも今回のコロナでは、美談で済ませず、きちんと現実が表に出てきていると思います。(すべてのニュースに目を通しているわけではないので、あくまでのも私の印象であることを拭えませんが)
美談で終わらせることに、私は強い閉塞感や違和感を持っています。
景気がいい時には社会の矛盾はあまり表に出てこないものですが、
このような非常事態の時には、普段は気にしないが確実に存在する矛盾が出てくるものです。
・10万円の一律給付の受け取る人を誰にするか。世帯主にすると、DVに苦しんでいる
人はどうするのか。
・「タクシー会社の解雇を美談にするべきではない」という記事。
DVと解雇の問題は時代を問わず存在しています。
これらは10年間なら、その渦中の時には出てこなかった内容だと感じます。
また、話は飛びますが、企業支援のための給付金についても、
国が動く前に市や県が独自に政策をすすめるなど、動きとしては希望が持てます。
「国がやるより自分たちで動いたほうが早い」という意思の表れであり、
本来、地方自治とはそうあるべきかと。
日本人はお上意識が強いと言われることが多いですが、
このコロナで地方自治の萌芽が見える気がします。
地方自治はその地域のことは当事者が決めればいいという考えのため、
それぞれの件で全く違う政策をとること自体も問題ないと思っています(パチンコ店名の公表など)。
多分、パチンコ店の店名発表の是非も、議論が分かれるでしょう。
営業しているパチンコ店の名前を公表する県が増えてきている中、東
京都は公表はせずにいます。
まだ数は少ないですが、「名前を公表すると、お互いに監視しあう空気になって不健全」という声もあります(地域住民にとってはたまったものではないかもしれませんが。また、公表すべきかどうか、私が明言するのは控えますが・・・)。
美談や美辞麗句で済ませなくなっただけでも、社会が開かれてきたのだと感じます。