ネット記事で親ガチャ論争について挙がっていたので、
私もそれに乗じて思うところを書きたいと思います。
このテーマに関して、私は全面的に同意します。
自分の努力ではどうしようもないことを受け入れなければらならないことほど、
不条理に感じることはありません。
テーマの主題になっている虐待についてですが、
虐待の件数が増えているのはあくまで「認知件数」です。
認知されていない虐待はまだまだ存在すると容易に想像できます。
最近になって「教育虐待」「毒親」という言葉が広がり始めていますし、
それに関する書籍もベストセラーになったりしています。
親ガチャ論争に関しては、一部、自分の怠慢を親のせいにしているだけではないかとい
う「自己責任論」もあるようですが、
虐待(身体的・精神的)という社会的文脈から語られるべきものです。
「誰が育ててくれたんだ」、「子供が親に恩返しをするのは当然」といったことを
口にするのは、恵まれた環境で育ったひとなのでしょう。
人間誰しも、自分の見聞きしたものの中でしか判断ができない性質は持っています。
それゆえ、恵まれた環境で育った人には虐待など想像できないファンタジーに聞こえる
でしょう。
ただ、虐待に関する記事は絶対に目にしているはずです。
そのような人たちは、虐待のニュースをどう見ているのでしょうか。
誰が好き好んで、毒親の元に生まれたいと望むでしょうか。
誰が好き好んで、虐待されるとわかってその親の元に生まれてくるでしょうか。
生活保護も本来は、
「自分の努力ではどうにもならない」宿命的なものを背負ったものへの支援なはずで
す。
あるいは、(話は飛躍しますが)難民支援なども、そのような位置づけがあるはずです。
ならば、親ガチャ論争も、
不条理な宿命をどこまで社会が支援するかという観点で語られるべきなのではないでし
ょうか。
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