人文科学の存在意義とは?

前回は「文学部の存在意義」というテーマで徒然なるままに書いてみました。

ただ、よくよく考えると文学部=人文科学なので、

今回は「人文科学の存在意義」としてみたいと思います。

大学の社会科学系の学部でも、

選択科目で人文系の授業を取ることが義務付けられているケースもあるでしょうから、

「人文科学に触れる機会は文学部生のみにあるわけではない」という理由で、

この記事では文学部→人文科学に裾野を広げてみます。

 

前回の「文学部の存在意義」の記事で述べたように、

「文学部の学問内容(人文科学)は人が人生の岐路に立った時に効果を発揮する」というのが正解でしょう。

 

「社会に出たときにすぐに役に立つ」という実利的な観点からすると、

正直、人文科学が実利に結しにくいのは否めないと思います。

だからといって、

実利的なところを探して「社会に役に立つ実学にもなれる」といった、

人文科学の有用性を前面に出そうとする言説にも、私は共感はしません。

実利的なものが善という前提が透けて見えてしまって・・・。

 

「人生の岐路に立った時に効果を発揮する」というフレーズは、

本当にその通りだと思います。

けど、人生の岐路であるがゆえに、コンセンサスが得にくいのだとも感じます。

 

人生の岐路がいつくるのかなど何人にも絶対にわかりませんし、

何度来るのかも予測できません。

人間って、どんなに予め予告されていても、

実際にその時が来てみないと、当事者として考えないものです。

それゆえ、岐路が来て初めて、過去を振り返ってみたり、文学で心を癒したりします。

 

同じ人生を歩む人などいませんし、家族であっても人格は別です。

1億人いたら1億通りの価値観があります。

 

人生の岐路に立った時に深みのある味わい方ができたとしても、

その岐路のタイミングや受け取り方はすべてバラバラ。

だからこそ、人文科学の存在意義はこれだ、という一般的な通説を作りにくいのではないでしょうか。

 

逆に、そのような一般的な通説を作る必要はないと思っています。

人の悩みや人生の岐路など千差万別で、その人にとっては初めてで唯一の悩み。

一般的な言葉ではその人の答えにはなりませんし、

同じ価値観が存在しない以上、

そのようなものを作っても思想の押し付けにしかなりかねません。

 

それよりもむしろ、

それぞれの人がそれぞれのタイミングで、思索を深めればいいのだと思います。

共通の言説がないからこそ、

人文科学で思考しているときには人は自由になれるのではないでしょうか。

 

「人文科学は役に立たない」という人には、

大きなお世話だ、と返したいところです。

人文科学を必要としている時の自分は悩みぬいているわけで、

今この瞬間を、他の誰でもない自分の人生を送っているのですから。

必要な時に必要なだけ勉強している、と胸を張って歩きたいものです!