文学部の存在意義って?

文学部の存在意義に注意が向かうのは、

私が文学部卒業であるからというのもありますし、

前職が予備校だったため、文学部に送り出した生徒もいたからでしょう。

文学部の存在意義や社会での位置づけを、ふとした時に振り返ることがあります。

 

先日、目に留まった新聞記事が記憶に残っています。

以下の太字部分は大阪大学文学部長のインタビュー内容です(一部、私が編集)。

 

文学部の学問が本領を発揮するのは、人生の岐路に立ったときではないか、と私は考えます。恋人にふられたとき、仕事に行き詰まったとき、親と意見が合わなかったとき、配偶者と不和になったとき、自分の子供が言うことを聞かなかったとき、親しい人々と死別したとき、長く単調な老後を迎えたとき、自らの死に直面したとき、等々です。

その時、文学部で学んだ事柄が、その問題に考える手がかりをきっと与えてくれます。しかも簡単な答えは与えてくれません。ただ、これらの問題を考えている間は、その問題を対象化し、客観的に捉えることができる。それは、その問題から自由でいられる、ということでもあるのです。これは、人間に与えられた究極の自由である、という言い方もできるでしょう。

人間が人間として自由であるためには、直面した問題について考え抜くしかない。その考える手がかりを与えてくれるのが、文学部で学ぶさまざまな学問であったというわけです。

 

 

高校生向けの学部研究のような本を読んでいても、

就職についての話になると、

「確かに実用的ではないが、就職率は他学部に引けを取らない」

「知識そのものではなく、文学部でやっていた考え方は実社会でも役に立つ」

といったものばかりです。

 

正直、このような言葉が胸を打たないのは、

損得でものを推し量っているからだと思います。

「学問そのものに損得はない」というのが大前提になるので、

損得の指標で測られるのが、どうしても私には違和感があります。

 

「人生の岐路に立った時に本領を発揮する」というフレーズは、

本当にその通りだと思います!